東吉野の旅館で誕生
夢を広げる燻製醤油
2023.07.31
名阪国道〈針IC〉に隣接している、奈良市内の〈道の駅 針T・R・S(通称:針テラス)〉。ここは500台以上の駐車場を有する、ショッピングモールのような複合型施設だ。〈針テラス〉の南側にある地たまご料理のレストラン〈IBURI KOBO 針テラス店〉が、ランチ客から人気。
〈IBURI KOBO〉の看板メニューは、「卵かけご飯」。2つの黄身とメレンゲが特徴だ。薬味は刻みのりにかつおぶし、細切りのたくわん。これらをご飯と混ぜて、醤油をかけて食べるだけのシンプルな料理。しかしながら、一口目からその深い味わいに驚かされる。
まずは黄身の濃厚な甘み。これは道の駅の農産直売所〈つげの畑 高原屋〉でも販売している、地元〈吉本エッグファーム〉のもの。自然配合肥料のみで育てられた鶏の産みたて卵だ。次に、醤油の爽やかな風味。卵と薬味と白米のバランスを、お店のオリジナルだというこの醤油が整えている。
「『卵かけご飯』のモデルは祖母の朝食レシピなんですよ」と店長で料理長の明後辰二郎(みょうごしんじろう)さんが教えてくれた。
「醤油は祖母の特製で、スモークして香りをよくしたものです。そもそも、この店は祖母の燻製醤油の良さを伝えたくて立ち上げたんです」。
〈IBURI KOBO〉の燻製醤油をさらに深堀りしたくなった。そこで、店長のおばあ様で商品の発案者、明後久美子さんにお話をうかがった。久美子さん、燻製醤油を思いついたきっかけは?
「我が家は代々、東吉野村の高見川のほとりにある、〈杉ケ瀬〉という旅館を営んできました。あの辺りはあゆやあまごなどの川魚が獲れるので、皆様、それを楽しみにしていらっしゃいます。私はそこの女将をしていたので、お客様に特別なおもてなしをしたいという気持ちがあったんです。まず素材の工夫として、魚の一夜干しを燻製にし始めたんです。もう30年くらい前のことですね。それから、『じゃあ料理に使う醤油をいぶってみようか』『オリーブオイルではどうなるかな』と試していったんですよ」。
女将自ら手がけた燻製料理と調味料はお客様の評判を呼んだ。そして、久美子さんは2001年7月にある燻製体験教室の講師として招かれる。このイベントが大きな転機となった。
「山桜をスモークチップ(発煙させて香りをつけるための木材)に選んだのはこのときからですね。地元のイベントだったから、吉野にちなんだものをチップにして生徒さんに興味を持ってほしくて。これを気に入ったので、今でも山桜チップを使い続けています」。
こうして誕生した、山桜チップによる久美子さんの燻製醤油。ただ、当初は商品化の予定がなく、旅館の料理に使うほかは知り合いへのおみやげに渡す程度だったという。販売までに時間がかかったのは、燻製醤油が大量生産できないからだった。
「この醤油は冷燻(れいくん)といって、30度以下の温度で煙にいぶすんです。でも、煙の量を安定させるのがとても難しい。ずっと私が見守って煙を調整します。そんな手間のかかる作り方では商品化なんて無理だと思っていました」。
久美子さんを心変わりさせたのは、燻製醤油を求める人たちの声だった。
「旅館でたくさんのお客様から醤油についてのお問い合わせをいただいたんです。それなら頑張ってみようかなって」。
2011年、ついに久美子さんはこれまで考案してきた燻製調味料を「山桜でふっ。」シリーズとして販売開始した。2021年からは〈IBURI KOBO〉で燻製の「しょう油」「だししょう油」「オリーブオイル」などを置いている。お客様はたった今味わった燻製醤油をおみやげとして購入できるようになった。
現在は女将を引退し、「新しくて面白いこと」を日々探しているという久美子さん。自らを「飽き性」と評する彼女が30年以上も燻製を続けてきたのは、食への並々ならぬ思いがあるからだ。
「知らない味を体験するって、食事への夢が広がるということだと思います。いつも食べているインスタントラーメンだって燻製オリーブオイルを垂らしてもらえればコクが深くなります。納豆や生魚の匂いが苦手な人も、燻製醤油で臭みをふっと消してもらいたいんです。そうやって誰かが、食卓で夢を広げていくことがすごくうれしいんですよ」。
久美子さんのこれからの目標は「若い人たちにおいしくて体にもいい、本物の味を届けること」。そのためにお孫さんである店長と日々、新メニューの相談をしているという。世代を超えて受け継がれていく燻製の味はこれからもきっと多くの人の夢を広げていくはずだ。