みちする

ひと:
海の幸で街を元気に
商人たちの夢の市場

2023.06.01

「うまいよ!今日から岩ガキが解禁」、「刺し身でも焼きでもいけますよ!」
創立から26年。場内に張りのある声が響き、魚河岸そのものの活気に満ちた
道の駅に、今日も国内外から多くの観光客やってくる。
この地域が誇るグルメ観光拠点となるまでの道の駅の歴史を
舞鶴港とれとれセンター〉の理事長、藤元達雄さんに伺った。

「この海鮮市場は1997年に、このあたりで水産業を営んでいた〈舞鶴水産流通協同組合〉の魚屋仲間が集まってね。『舞鶴にもっと観光に来たくなるような水産市場を作ろう!』って声をかけて始まったんですよ」。
と、カラッと気持ちのいい笑顔で話す藤元さんは、現在75歳。大きな体躯とやわらかな表情が印象的な〈舞鶴港とれとれセンター〉の理事長だ。

藤元さんは42歳で地元舞鶴の水産業者から独立。舞鶴市内に鮮魚店〈魚たつ〉を立ち上げた。この市場の設立に関わった仲間たちも、当時同じように地元で鮮魚店を営んでいた鮮魚仲買人だという。

藤元さんの名前「達雄」からとった店名〈魚たつ〉の看板が掲げられた店先。

最初に建てたこの〈海鮮市場〉は、日本海側最大級の480坪。巨大な観光集客施設の場合、通常、大企業からの投資や自治体や第3セクターなど公共の資本が入って設立されることが多い。

みなさんが、それほどの思い切った投資を決断したのはなぜですか?
「1995年に阪神淡路大震災があったんですよ。大阪や神戸からのお客さんが多かった舞鶴は観光も水産関係のお店も大打撃を受けた。同じ頃、近くに高速道路ができる計画もあって、10年もすれば、内陸部の高速道路を通って天橋立や宮津にも行けるようになる。このままだと舞鶴は、お客さんが素通りしてしまう街になる。なんとかせな、ってね」。

当時、東港には〈舞鶴赤れんがパーク〉がオープン。西港は観光資源が乏しかった。

この頃、バブル崩壊で日本経済は「失われた30年」の入り口に。大規模な公共投資は鳴りを潜め、地方の不景気が加速。そんな中で起きた大震災は関西の経済を急激に冷え込ませた。

「昔、この組合は地元の水産加工業者が160社もあったんです。どの街もそうですが、不景気と後継者不足で次々にみなさんお店を閉められて、私たちの組合も縮小していってね。でも、市場の計画を勧めていくうちに、地域の人たちがどんどん繋がって、行政も協力してくれるようになって。オープンに向けて、みんながんばっていました」。

創立メンバーたちの鮮魚店。それぞれの目利きで仕入れた魚が並ぶ。

その矢先の1997年1月2日、島根県隠岐島沖の日本海でロシア船籍のタンカーが座礁。「ナホトカ号重油流出事故」が起きた。舞鶴市消防本部には重油が舞鶴にも漂着したという記録が残されている。
「大きなしけでね、島根沖から北陸まで被害を受けた。地元の漁業関係の人間は『ああ、もうだめだ』って。後継者不足もあって、さすがにお店を畳んでしまう人も出始めて。組合の仲間も減ってしまいました。いま残っているは60〜70社くらいなんですよ」。

開業を先延ばしにしても、地元の衰退を止める課題は消えない。この年の春、組合の仲間たちは「舞鶴港とれとれセンター」をオープンした。そして新しい市場は、舞鶴に人を呼び戻しはじめた。
「ここを作ってから、私の息子が大手企業関連の勤め先をやめて『店、継ぐわ!』って帰ってきてくれたんです。いまは息子が『魚たつ』の社長で、舞鶴魚市場の競りや仕入れもやってます。ここの鮮魚店はみんな仲買人だから、朝競りに参加して、それぞれ目利きして魚を仕入れてくる。どの鮮魚店も次の後継者がちゃんと育っているんですよ」。

この日も店頭で接客。「今朝息子が仕入れてきた魚、うまいですよ」。

〈舞鶴港とれとれセンター〉は開業後、舞鶴の観光を語る上で欠かせない存在に成長。その原動力となった、市場で買ったものをその場で食べるという現在のサービスはどうやって誕生したのだろう。
このイートイン型サービスは、藤元さんがお考えになったんですか?
「いやいや、仲間みんなで考えたんですよ。とれたての舞鶴のうまい魚を地元そのままの味でみなさんに食べてもらえるように。買って、食べて、料理してっていう鮮魚店や土産店。舞鶴はかまぼこが名産だから、そういうお店も入ってもらって。活気があって、その場で焼いて、みんなで食べて欲しかった。おいしいんですよぉ、舞鶴の魚は。ツチエビなんて、甘エビよりもコクがあってうまい。そういう地元でしか味わえないものを、舞鶴に来た人に食べてほしかったんです」。

〈魚たつ〉の自慢は刺身や地魚。この時期は丹後の春を告げるイサザが旬。

設立当初の夢は、着々と実現。来館者数は増加し、2002年には現在の〈道の駅 舞鶴港とれとれセンター〉として登録。2013年の年間利用者数は、776,380人を記録した。
目の前の京都舞鶴港 第2埠頭には、毎年、世界各国から約30隻以上のクルーズ船が来航し、舞鶴と市場はインバウンドの賑わいに沸いた。

しかし2020年、コロナ禍が世界を覆う。
「いやあ、もう大変でした。自粛で営業もできない時期もあり、ほんとにお客さんが全然来なくなって。いま、ようやく少しずつ国内も海外のクルーズ客も戻ってきましたが、まだまだですよ。コロナの間はお店それぞれのホームページで通販もしていましたが。常連さんは電話で直接、ここで食べたおいしさが忘れられないって、注文をくださって」。

クルーズ船が世界からやってくる西の舞鶴港。画像は舞鶴海上保安部の船。

それでも通販事業ではなくこの市場に、舞鶴の街に人が来てほしいと藤元さんはいう。
「この施設は、長年地元で頑張ってきた人たちと若い人たち、そして後継者たちをつなぐ装置だから。ここは、舞鶴の文化を新しく作り直してくれる場所なんです。だから、やっぱり市場を目的に舞鶴に来てほしいし、クルーズ船も戻ってきて欲しい。外国語はわからなくても身振り手振りでおいしいものの話で、どんな国の人とでも通じあえるから」。

人の波や商いの波は、シケの日も凪の日もある。そんな時代の波の中、どれほど翻弄されても、持てる力を合わせて仲間と越えて、2022年7月〈道の駅 舞鶴港とれとれセンター〉は、累計2000万人の入館者を達成。
けれど、藤元さんたちはまだ夢の途中。「コロナ前の活気に戻すぞ!」と、次の目標に向かって、走り出している。この揺らぐことのない、海と向き合う商人のたくましさは、きっとまたあたらしい活気のビッグウェーブを舞鶴に起こすに違いない。

お話の後、お写真をというと「お、頭セットせなあかんな(笑)」と藤元さん。パワフル!

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